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どうも、ぼくです。
とびだせどうぶつの森に再びハマりました。
推しの村民の口グセを「すきです」にしたのですが、ふいうちでくるので毎回キュンとしてしまいます。
根暗マンなので正直あいさつされただけで落ちるちょろさです、おはようございます。
今日は「心の余裕」について考えたいと思う次第です。
「心の余裕」と一言でいっても、意味は幅広いのではないでしょうか。
自分が身近に感じる「心の余裕」がないと思う人は、言葉遣いが荒かったり、汚かったり、店員さんに大きい態度をとったり、他人を傷付けて悦に入るとか、自分の非を認められないヒトです。
弱い犬ほどよく吠えるといいますが、余裕がない人ほど我慢ができなくて、せっかち、気性が荒いなどの性質と結び付けられる気がします。
「心の余裕」は何で大きくなるのでしょうか。
お金、お酒、自己充実感、幸福感、とか。
それは人によって違うものであって挙げればいくらでもあると思います。
人のせいにすることが一番簡単な逃げ道を作る方法であり、手っ取り早く仲間を作るほうだと思います。でも、脆い。
辛い道を選ぶ人なんてそうそういないですよね。
良くも悪くも、楽な道が選びやすく、見えやすい世界になっているなあと感じます。
自分の非を認められない、まず自分にも何か原因があるのではないかと思わず全てを相手に向けてしまうのは違うのではないか。
喧嘩するほど仲がいいとはいいますが、本当に仲が良かったら互いを尊重できて、感情のままに物を言うのではなく物事を整理しながらどうしてそう思ったのかを相手にちゃんと聞けると思うのです。
それができていないと、傍から見たら自分の意見が通らないから、と怒っているように見えてしまいませんか?
「大人になりなよ」とか言わないといけない相手とは付き合いをやめるべき、あたまのわるい人にレベルを合わせているとじわじわとストレスが溜まって
一気に来ます。自分のことが一番わかるのは自分ですし、自分のことが一番大好きなのも自分です。こういう時ぐらいは世界で一番甘やかしてあげたい。
NOといえる日本人に私はなりたい。
「いつもならこんなこと言わないのに」という一言言ってしまったりします。気が立っていて、それは理由にならないとわかっていても他人にあたってしまうのはヒトではない何かの所業ではないでしょうか。
自分の機嫌もロクに取れず他人にそれを委ねてしまう大人()をみると、自分より多く生きているのになあ?!ってなります。関わらないのが一番ですね。
自分にストレスを与えてくるものとの距離の取り方が今まで分からなかったので嫌な思いもたくさんしてみましたが、こんなご時世なので左にスワイプしとけばオッケーくらいのお気持ちで生きていかないと世界に殺されてしまう。
まず、「休むこと」が悪だという考え方で育ってきていたのでカルチャーショックでした。
今の日本社会もまさにそうではないでしょうか。
正直休む方法も分かっていなかったみたいなところありますね。「そんなんサボればいいんや!」とかいう幸せな方はこんな文字の羅列に目を通してないで、現代文の読解をひたすらやってほしいですね。これで「あたまがわるい」ひとが減りますように!
自分の生きていた世界がどれだけ狭かったのか、大学に入り一人暮らしを始め自分の好きなように時間管理をできるようになってから気が付きました。もっとはやく気がついていたら~なんて無いねだりはしませんが、こうやって物事をとらえるようになれたので少しはヒトとして成長できた気がしますね!人生は自己満足感で幸福度が変わるとおもってます。他人のせいにしてばっかりの時点で幸せにはなれないですね。
いろいろな人とお話しする機会は今の自分にはないけれど、人とすことで得られるものはたくさんあると思います。
精神科医に「カウンセリング受けろ」って言われ続けた理由がわかりますね。絶対受けないけれど。
たった30分程度話して7000円も取られるんですよ。メイドカフェ3時間はいれますよ。可愛い女の子とお話ししてるほうが絶対精神衛生的にいいですよね。根暗コミュ障マンだから話せないけど、目の保養に7000円は価値がある。安い。
第三者目線を持ち、物事を達観できる人は心の余裕が大きそう。長生きはしたくないのではやくそれになりたい。
全ての人間をリスペクトすることは難しいけれど、まずは興味を持つことが愛であり、人間関係を築く上での第一歩だと痛感した齢20のナオンです。
とびだせどうぶつの森やりながら書いたのでガバさは許してください!なんにもしないけれど!
他人から何かを得られる人間になりたいですね。
強く生きていきたい。生きたくないけど。生きにくいし。
02
どうも。ぼくです。
家の裏に住み着いてる子猫がどんどん大きくなって行くのを見て時間が過ぎていっているのをひしひしと感じる蒸し暑い今日です。
液晶画面ばかり見ていては目に悪いなあと思ったので学生時代は1日1冊読んでた小説を読むことにしました。
好きな作家は伊坂幸太郎です。分かりやすくまっすぐ読めるし、伏線回収も綺麗。まっすぐ読めて、伏線も楽しめるので自分にはぴったりで読み漁っています。死神の精度がその作風が顕著に現れててとっても好きです。たまらない。
本を読むスピードはめちゃ早い方なので、すぐ読み終わってしまうと楽しくないので難しい小説を読もうと思い、一回しかちゃんと読んだことのない伊藤計劃の本を買い直しました。難しい。何回もページを戻って読まないと分からない。自分の頭が無いだけなんですけどね、はい。
オススメの小説があったら教えてください。
何かクリエイティブなことがしたい。こんな自分だからこそ表現できる何かがあるんじゃないかとか、無い物ねだりで無粋だということはわかっていても見えない何かに縋りたくなってしまう心の弱さですね。
0から1を生み出している人は本当に生きていることが美しいと思うし強い。
何かを覚悟している人の目は誰にも止められない、儚さと薄氷に映っているモノを見ているみたいで恐い。
自分で自分を幸せにしてあげられる人間になりたいですね。
自分で自分を愛せない分誰かを愛したいけどそれは器でしかないと分かっているので虚しくなるだけですね、蝉が鳴き始めているので夏が生きるなと警告しているのだと思う今日です。
01
どうも。ぼくです。
人生のクラウドファンディングがしたい今日この頃。
お空が明るい時間が増えましたね。
スーパーでスイカを買いました。
久しぶりに湯船をはって、入浴剤を入れて、ボディスクラブもして、YouTubeを見ながらポカポカするまで浸かって、冷蔵庫で冷やしておいたスイカに塩をかけて食べました。塩がなくても甘かったです。当たり。
夏が始まった感じがしますね。
5日ほど前から始めた「やることノート」続いてます。
二日連続で全部押せました。えらい。
書いてあることは日常で普通にしていることだと思うのですが、それができないのでゴミ。
1日にハンコを押せる数をちょっとずつ増やしていきたい。
項目も増やしていきたい。ちゃんと続けたい。
今日はゴミをまとめて、出せました。えらい。
曜日感覚がちゃんとあるのは改善されてきた証なのでは、、?とちょっと嬉しくなります。
年内には毎日食器を洗えて、2、3日に一回洗濯機を回すことを当たり前にできるようになりたい。毎日料理を作ってたべられるようになりたい。
自分にとっての幸せはお風呂上がりの冷えたスイカレベルなのに、どうして幸せになれないんだとか考えてしまう。さみしい。
褒めてもらっても「全然そんなことないのに、何言ってんだこいつ大丈夫か」みたいに素直に受け入れられない。好意が気持ち悪いと思ってしまう。さみしい。
髪の毛がポニーテールできるくらいまで伸びました。夏はずっと縛ってそうです。
5
どうも、ぼくです。お久しぶりです。最近雨が多いですね。低気圧が発生すると頭痛も発生するので鎮痛剤を飲む毎日です。「低気圧予測アプリ」というのがあるのでとてもオススメです。備えができる。お薬絶対忘れないようにしないとですね。
今回は「ファッション化したメンヘラ」について考えてみたいと思います。
そもそも「メンヘラ」とは何なのか。
前回の記事を読んでいただけると幸いです。
🌹https://dead-oyasumi.hateblo.jp/entry/2018/05/29/040234🌹
今日一般定期に使われている「メンヘラ」な人を指す多くを締めるのは、(今回は女性に限る)
上記を満たしている人が世でいう「メンヘラ」ではないだろうか。
私は本来の意味を失いつつある言葉だと思うし、障害や病気で苦しんでいる人を蔑むようなニュアンスが含まれるようになってきた言葉なのではないかと思う。
現代では、色々な症状にちゃんとした病名がついている。
例えば、
自撮りをSNSに載せる→承認欲求が強い、自分に自信がある
と思われがちだが、過度な承認欲求や自己顕示欲を持つ人は「自己愛性パーソナリティ障害」と診断されることもある。症状例をみると、自意識過剰だとか傲慢だとか思うかもしれないが、これに苦しむ人は自分の首を締めながら生きているのだ。等身大の自分を正面から受け止められない事もきっとつらいことなのではないか。「もっと完璧に、“愛される私”にならないと」と、日々重圧に押しつぶされそうになりながら生きているのではないか。
(自分がこの障がいを持っているわけではないのでほんの数パーセントくらいしか理解できていないのは許してください。)
誰しもが重圧に耐えながら生きている社会ではあるが、そのキャパシティも程度も人によって感じ方は違うわけであって一括りに「甘えだ」と言ってしまうのは違うのではないか。
話を戻すと、所謂「メンヘラ」がファッションにカテゴライズ化されたのは「病みかわいい」という文化ができ、確立されつつあるからではないだろうか。
例えば、ネックレスに血を模したレジンがついたカミソリ、錠剤やカプセル、注射器などがついているものがある。これを「カワイイ」と捉えるのは人によりけりであるが、現に原宿を中心とし、モデルやアイドル、アーティストなどがこういったファッションをしているので若い女性は真似をするのだ。そしてこれが「カワイイ」になる。
ファッションはアートなので何がいけないとかそういった具体的な線引きがないのが正直なところ。しかし、カミソリは自傷行為を想像させるし、薬や注射器はまさにそうである。
心療内科にかかっていれば、いやでも目に入るものではないか。
苦しんでいる人を馬鹿にしているという意見があり、販売中止になったアクセサリーもある。
私個人としては精神障がいを笑い飛ばして欲しいというか、割れ物に触れる感じで接して欲しくはないので、こうポップにファッション化されると過去に比べればまだ「生きやすい」社会なのかもしれない。
「昨日発作でてヤバかったの〜!!薬効かなくて一睡もできてないわァ」「マジ?卍じゃん!」くらいのテンションで障がいと寄り添うというか、歩んでいけたらいいなあ〜なんて思う。
もちろん、ファッション化されていく“メンヘラ”は良いものではない。
精神障がいと診断され苦しんでいる人を軽視する声があるのが現代である。
「普通になりなさい」というのがこのお国柄といいますか。“普通”を“普通”にできなくて苦しんでいる人もいる。それが原因でいじめを受けたり、輪に入れなかったり、失うものが大きいと思う。
殆どの人がテンプレートに生きている社会をみて、生きていく。「他の方法」を知らないのだ。だから、引きこもってしまう人もいる。その人にとってはそれが正しいのかもしれない。家から出るのが苦痛であったり、多くの人とコミュニケーションを取るのが苦手であれば、家でできる仕事を探せばいいし、通信制の学校に変えればいい。
しかし、それを無理矢理にでも正方形の型に押し込んで来るのが社会である。多くの人が型の外に大事な何かを置いてきてしまっているような気がする、さみしい。
障がいは個性であると偉い人が言ってた気がするので個性にしたいと自分は思う。
しかしそれを盾にして非生産的に生きている人は今日でいう「メンヘラ」だと私は思う。
もがき苦しんで良い方に向かおうと努力している人を指す言葉ではない。失礼極まりない。
努力しても結果しか見てもらえない社会。社会から見たら治療の期間は空白だろうし、そういった話は自分からしたら恥と感じてしまっているあたり拗らせているんだと言われました。
最近は毎日4、5個やるべきことをノートに書き出して出来たら済スタンプを押すヤツを始めました。押せた日は嬉しいですね。誰も褒めるようなレベルではないけど、そうやってちょっとずつでも治していきたい。人権がないように感じる。生きにくい。
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どうも、ぼくです。
最近のブームはミラクルひかるさんの宇多田ヒカルさんのモノマネを見ることです。デビュー当初の音源が本当そのまま喉から出てる。すごいなあ〜ってずっと見てしまいます。
今回は今を生きる人の自己肯定感の低下と「メンヘラ」を考えていきたいと思います。
◎自己肯定感とは
自己肯定感とは、自分のあり方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する言葉。
(実用日本語表現辞典より)
自信がない、自分に価値を見出せないとかそういった感情を誰しも抱いたことがあるのでは。
自信はどこからくるのか。
「成功」からくるのだと私は考えます。上手くいったとか褒められたとか、それを自分の中で消化できる人は人生が豊かなのでは。
私は、誰かに褒められたとか、誰かのためにしたこと他者から認められたとか、評価を他人に依存してしまっている人間なのでなにかと生きにくい。自分のことを自分で褒めてあげられるようになることが一つの目標ですね。
でも、他人の目を必要以上に気にしてしまいますよね。その度によく言われるのが「自意識過剰」「謙虚さがない」とか、そんなこと気にしていたらきりがないわけです。でも気にしてしまうことから歯車がずれていってしまうのです。
よく少女漫画にありがちな「私のことすき?」とかいうアレ。好きじゃなかったら付き合ってないと思うけどなあとか野暮なことは置いておいて、他人の言葉、見えないものは凶器であり、信じられないのが正直なところ。
褒められることにも嫌悪を感じてしまうワイちゃんは末期ですね。
結局自分が一番可愛いので傷つかないために他人との関係を断ち、言葉を信じないことが一番手っ取り早いというか、極端だなと自分でも思います。
SNSで素敵な人が沢山見えてしまうことも自己肯定感の低下に繋がっているのではないでしょうか。インスタグラムを開けばキラキラしている写真がいっぱい、ツイッターをみれば可愛い女の子がいっぱい。こんなんばっか見てたらそりゃ自信なくなるわァ〜って感じですよね。顔面勝者は人生の勝者だと思います。整形している人が増えている理由が分かりますね。
でも可愛い女の子は女の子苦労が伺えます。コメントを見れば「整形ですか?」とか「加工しすぎじゃないですか?」とか。SNSで繋がっている人全員が友達な人なんてまずいないと思います。あったこともない人、実物を見たこともないのにすぐそれ。可愛い女の子、生で見ても可愛しまず顔の大きさが違かったし足の長さも細さも現実離れしてたのですぐ加工って騒ぐ人は僻みなのか。正直現物のが可愛いぞと。写真は一つの作品なんだから加工しようが勝手だろうと思うんです。デリヘルだったらキレていいと思いますね。チェンジで。
自己肯定感を失ってしまったら再構築することは困難でしかないと思います。0から1を生み出すとかそういうレベルです。その感情が「ない」わけですからね。難しい。自己肯定感が低いことと謙虚さはイコールではないと理解している人は少なそうです。褒められて「そんなことないですよ」って言うのは本当にそう思ってないからであって、自分に自信があってそれを分かっている上での営業挨拶ではないのだと。側から見たら線引きは難しいですね。女の子は褒めれば喜ぶだろうとか思っていっぱい褒める人もいますが、かえってそれがその人にとっての負担でしかなかったり。考えた上での発言であっても相手の意を汲めていなかったら、ただ傷つけるだけになってしまう人間の難しさですね。
自己肯定感が低い。だから他人に評価を依存して、気がつけばその「人」に依存してしまい、その人の存在が自己の肯定になってしまうのではないでしょうか。自分の感情が一つ外に出て、しかもそれに足がついていて思考するものだということに恐怖を抱かないくらい盲目になってしまうのが現実です。肯定を他人に委ねてしまうことが一つの現実逃避の方法なのかもしれません。
これは「メンヘラ」と括られている人に多く見られるのでは。正直、メンヘラと聞くとめんどくさそうな人だとか重そうだとかそういったイメージが抱かれると思います。何故なのか。それはファッションメンヘラの存在や、自分を否定した形を他人に見せることで少なからず共感を得たいとか、可哀想と思って欲しい、構って欲しいという人が使いがちな「ツール」を利用している人を総称しているものだ世間に認知されつつあるからではないでしょうか。
メンヘラとは2ちゃんねるの「メンタルヘルス板」の略であり、精神障がいそのものを示す単語ではなかったのです。
詳しくこちらのサイトに書かれていたので、目を通していただけると幸いです。
「メンヘラ」ってどういう意味? メンヘラという言葉が生まれるまで - メンヘラ.jp
精神障がいを抱えている身としてはより肩幅が狭くなったと感じます。うつは脳の病気で、自分の意図しないところで症状が出てしまうことがあります。それが人前だと尚更辛い。汚いものを見るような目で見られ、「構って欲しいの?」と心無い言葉に刺される。できるものなら1人の時に症状も涙も出て欲しいものですが、それが管理できないから障がいと言われているわけで。「障がい」というものは一生治らないものだと思っています。薬を服用し続けたり、カウンセリングを続けることで「マシに」するものだと。一生共に歩んでいくものだと私は思います。
引きずっている鎖は他者からは見えず、「普通の人」と同じ歩き方をしたりスピードを出すためには何倍もの努力が必要だということを、日常生活のなかで痛感させられます。もちろんそれに気がつかれるわけもなく、理解されるわけもなく、キャパオーバーして壊れてしまう人が多いのが現状です。彼らなりに前に進んでいるのに、人は言うわけです「全然進んでないね」と。
昔クラスにいたうつ病の子を思い出します。クラスの女子からは煙たがられ、友人と呼べる人もそんなに多くはなかった気がします。それでも、保健室に毎日のように通えていた彼女はとても強い人だったのだとこっち側に来てから気がつきました。当時中学生。メンヘラという言葉もありませんでした。ただのかまってちゃんなんだと片付けられて、毎日たくさんの人に冷たい目で見られながらも自分のペースでちゃんと継続して歩けていたことの凄さ。今の私でもできていないことです。
辛い思いをしている人々が「メンヘラ」とか、「かまってちゃん」で片付けられてしまうことがとても悲しいなと心臓が締め付けられる午前四時。日本は他人ばかり見ていて等身大の自分を見れていない人間が育つ場所なので仕方がないといえば仕方がないです。それを根本的に変えるのは300年あっても足りるのでしょうか。
決められたステージの上で、自分も、他人も、個性を生かせて、辛いことも共有できて、偽らないでいいような場所を作っていきたいですね。顔も住んでいる場所も知らない私に優しい言葉をかけてくれた彼女のような人が増えればいいのになあとかまた人任せで考えてしまうのが悪いところですね。治していきたい。つらい。生きにくい。
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どうも、ぼくです。1日に多くても2、3時間しか外気と触れ合えません。一週間の平均は20分もいかないのではないでしょうか。
自分に出来るだけストレスを与えないように外に出ないわけですが、自分にストレスを与えまくるSNSはやめられない現代人です。
今回は恋愛、性、恋人との関係性を考えていきたいと思います。長いので多分また書きます。
私はこれまで4人とお付き合いしてきました。人生20年、ナウなヤングたちに比べたら少ないのでしょうか。よくわからない。
1人目には浮気されていたことが発覚しヒスって別れ、2人目には「もう好きじゃない」と振られ、3人目は相手がメンヘラ拗らせて別れ、4人目はふわふわしてますね、でも一番波長が合っている気がした。
やはり年頃でしたので性に男女ともに敏感になっている人が多いわけです。中学校の頃はDSをWi-Fiにつなげてイナズマイレブン同人誌を読んでいました。おかあさんごめんなさい。
でも周りの人たちはもう単語だけで楽しそうなんです。滅茶滅茶カマトトぶって知らないふりしてごめんなさい。インターネットでBL読み漁っててごめんなさい。知識だけはありに有り余ってました。みさくら語で喋ってごめんなさい。
高校にもなると性の話がよりディープになりました。正直下世話な話は好きなんですけど、ポップじゃないと気持ち悪くなってしまうんですよね。人によってラインは違うわけで、私は「それは指4本入るわ」とか言ってました。ゲラゲラ笑ってくれた友人は一生の友だと思います。
下ネタ大好きマン()の私でも悩むがありました。他人と身体の接触が気持ち悪いというか無理なんです。
女の子はたいてい距離が近くて移動教室で腕を組んでたり、とにかく距離が近い。男の子もそうだったらおいしいですね。どんなに仲が良い、心を許している人でも手を組まれたりすると身構えてしまいます。少しの時間ならまだ耐えられるんですけど、何かを待ってる時とか所謂だるがらみの時にそれは起こりやすいわけで。嫌いな人でないからこそ振り払えないので笑ってごまかしながら自然と距離を取るようにしていました。
そして浮気していたことを直接謝りたいと言われた元カレ()に呼び出された公園でレイプされかけて、より異性というもの悪い意味で意識するようになりました。うーん、卍!
気づけば大学生、そういうことが当たり前になる歳です。中学高校と仲良く普通に遊んでた友人が急に女扱いをしてきたときの胸騒ぎをわすれません。正直気持ち悪いと思ってしまった自分がいました。
大学生になったら友人というグループだけでなくより異性というグループに括られている気がしました。気持ちが悪い、不快としか思えなかったのが正直なところ。なぜ付き合ってもいないのに、心も許してないのに身体は許せるのか。
自己肯定感0%と診断された私の方が自分のこと大事にしてるのって、最高にクールじゃん!ウケる!(ウケない)
人によって異性との関わり方、またその価値観は様々だと思います。
居酒屋でアルバイトしていた時に客に胸を触られ、私は何が起こったか理解できず「えっ」としか言えず、目の前にいた店長をみると何も言わずにただ苦笑いしていたのを見てとても悲しくなりました。アルコールが入っているから性への欲求が高まってしまうことは仕方のないことだと思いますが、世の男性はそれを女性誰に向けてもいいとか、性を軽視している人が多いということに嫌悪を感じます。
私は恋人関係というのは一種の契約だと考えています。恋人関係だから手を繋げるとか、身体的接触ができると。どうして何も契約を交わしていない人に触られ、未然に防ごうとすると自意識過剰と踏みにじられなければならいのか。
最初からあなたとそういった関係になる気はないと宣言しているようなものなので、付き合ってもいないのにスキンシップをしてくるような人よりは大分良心的だと思う。勘違い精神童貞製造を食い止めているのに。
よく、アニメや漫画で過度な描写があり、それを好んでいる人は犯罪を起こしやすいみたいに言われますが、相手の同意なく触れてくるような輩と違って、二次元という自分の意思だけで性を全うしている人の方が健全でないかと思うんです。私はキメセクとか獣姦オメガバース物とか大好きですけど、それを実際にしたいとは思わないです。えっちなのを見ていることが良いんですよ。オメガバースはいいぞ。
プロレスが好きだという人にじゃプロレスやりなよって言ってるのと一緒です。違うんだと。そうじゃないってことです。
「お金ないからお金いっぱい刷ればいいのか!」とか安直なこと考えるどっかの偉い人と一緒ですね。よくない。
よく自分の性経験を自慢げに語る人がいますが、そういう人ほど人としての魅力がない。お前の性事情に誰も興味ないぞというお気持ち。経験人数だとか数字だけを追っている時点でお察しだと思うんです。中に入れて出しただけで何が変わったのか。人間的に成長したわけでもないし、魅力的になったわけでも面白くなったわけでもない。ただの武勇伝に使われるための性の軽視、よくないですね。今の自分なら触ってきた人をそのまま警察に引きずり込んで社会的に殺してやるからなと言えるくらいには成長している。ポップに生きていきたい。でも世界が生きるなと言ってくる。生きにくい。
2
どうも、ぼくです。
人によって辛さを受け入れきれるキャパが違うみたいな話を前でしましたが、今回はそこを考えていきたいと思う次第でございまする。
「辛さ」の物差しは十人十色です。
では「いつ」それを感じるのか。
言い出したらキリがないので、自分の物差しで書いていきます。
「辛い」と感じる時、人前でうまく話せなかった、やるべきことがうまくできずダメにしてしまった、他人の感情が流れ込んできた、自己形成ができていない、自分のダメなところが直せていない、特に理由は思う当たらないけど辛い、とか様々ですよね。
辛いと感じているとき、気づけば涙が止まらなくなってたり心臓がキュッと締め付けられて痛くて、息がしにくくなったり過呼吸になるのはよくあることで、他人の辛さの感じ方は理解したくてもできないものなので、これは「辛い」の基準に満たないのではとか甘えているだけではとかシナプスが弾けるのを感じるくらい、走馬灯のように感情が、思考が、刹那、巡ります。
辛さを受け入れられるキャパシティは言わずもがな目に見えないわけで、本人も気づかぬうちに溢れていて気がついた頃には精神を病んでしまっていたりとか、身体に異変が現れたりとか、未然に防ごうとはしても難しい。
分かってあげられない、気づいてあげられないが溢れている世界ですね。寂しい。
精神を病んでしまう人に多いのが「他人を理解できる」と思っている人だというのを聞いて 。世界なんて自分と数えきれない他人で構成されているとはわかっていても、身近にいる人間は他人という括りにはあっても、家族とか友人、恋人というジョブを割り振ってしまうものなので理解したいとか理解できているとか誰しもが思ってしまうのは仕方ないことですよね。自分のことでも知り尽くすのは難しいものです。嫌なところは目を瞑ってしまう汚さで無意識に塗り潰していることに気づき自己嫌悪の日々です。エゴでしょうか。
辛さを感じるとはまた異なるかもしれませんが、PMSというものがあります。
“月経前症候群(げっけいぜんしょうこうぐん、英: PMS; Premenstrual Syndrome)は、数か月にわたって月経の周期に伴って、月経の2週間ないし1週間位前からおこり、月経開始とともに消失する、一連の身体的、および精神的症状を示す症候群(いろいろな症状の集まり)である。” -Wikipediaより引用
ホルモンバランスの乱れにより、身体の不調や情緒不安定になったり一種の抑うつ状態になったりなど症状は人によって様々です。
PMSが重いと、その期間だけ精神安定剤や睡眠導入剤を処方してもらう人もいるレベルなのです。友人がそう。
世では無神経な人が「生理前で苛立ってるの?」とかからかい半分で言っていたりしますが、見ていてとても腹立たしい思慮の浅はかさに呆れてしまいます。機嫌が悪いから八つ当たりしちゃう!とかいう老害と一緒にしてしまってはいないでしょうか。よくないぞ!オトナは自分の機嫌は自分とるんだぞ!
ホルモンバランスの乱れは、「寒いから暖かくしよう」とか「パンがないならケーキ食べればいいじゃない」とかそういう次元ではないのだと分からない人が「うつは甘え」という言葉を生み出したのではないか。まず小麦粉がないって話ですよ。私自身うつになっても甘えてるだけだなって思っていたというか現在進行形で思っているので拗らせにこじらせ治ってません、しんどい。
心の場所はどこ?って聞くと胸に手を当てるようなお花畑マンは帰って、どうぞ。
心と呼ばれるものは頭にあります。脳です。うつは脳の病気だよといわれて、私自身も考えが変わった部分があります。本来生成されているはずの物質が無かったり基準を大幅に下回っていたり。「ワイ、血小板がないから怪我したら血が止まらない!止まりにくい!」がより見えなくなっただけだと思うんです。†悔い改めて†
つらいのわかって><とかキャラメルマキアートなことを言っているのではありません。知識もないのに脊髄反射で言葉を発して誰かに不快な思いをさせている人が間引かれればいいのになあって思う今日です。ちゃんと物事を考えられる人が減っているのか、そうでない人が目立ちすぎているだけなのか。生きにくい。