ゴミ箱

社会のゴミが考えたこと。毎秒ほめられたい。

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どうも、ぼくです。

最近のブームはミラクルひかるさんの宇多田ヒカルさんのモノマネを見ることです。デビュー当初の音源が本当そのまま喉から出てる。すごいなあ〜ってずっと見てしまいます。

 

今回は今を生きる人の自己肯定感の低下と「メンヘラ」を考えていきたいと思います。

 

◎自己肯定感とは

自己肯定感とは、自分のあり方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する言葉。

(実用日本語表現辞典より)

 

自信がない、自分に価値を見出せないとかそういった感情を誰しも抱いたことがあるのでは。

 

自信はどこからくるのか。

「成功」からくるのだと私は考えます。上手くいったとか褒められたとか、それを自分の中で消化できる人は人生が豊かなのでは。

私は、誰かに褒められたとか、誰かのためにしたこと他者から認められたとか、評価を他人に依存してしまっている人間なのでなにかと生きにくい。自分のことを自分で褒めてあげられるようになることが一つの目標ですね。

でも、他人の目を必要以上に気にしてしまいますよね。その度によく言われるのが「自意識過剰」「謙虚さがない」とか、そんなこと気にしていたらきりがないわけです。でも気にしてしまうことから歯車がずれていってしまうのです。

 

よく少女漫画にありがちな「私のことすき?」とかいうアレ。好きじゃなかったら付き合ってないと思うけどなあとか野暮なことは置いておいて、他人の言葉、見えないものは凶器であり、信じられないのが正直なところ。

褒められることにも嫌悪を感じてしまうワイちゃんは末期ですね。

結局自分が一番可愛いので傷つかないために他人との関係を断ち、言葉を信じないことが一番手っ取り早いというか、極端だなと自分でも思います。

 

SNSで素敵な人が沢山見えてしまうことも自己肯定感の低下に繋がっているのではないでしょうか。インスタグラムを開けばキラキラしている写真がいっぱい、ツイッターをみれば可愛い女の子がいっぱい。こんなんばっか見てたらそりゃ自信なくなるわァ〜って感じですよね。顔面勝者は人生の勝者だと思います。整形している人が増えている理由が分かりますね。

でも可愛い女の子は女の子苦労が伺えます。コメントを見れば「整形ですか?」とか「加工しすぎじゃないですか?」とか。SNSで繋がっている人全員が友達な人なんてまずいないと思います。あったこともない人、実物を見たこともないのにすぐそれ。可愛い女の子、生で見ても可愛しまず顔の大きさが違かったし足の長さも細さも現実離れしてたのですぐ加工って騒ぐ人は僻みなのか。正直現物のが可愛いぞと。写真は一つの作品なんだから加工しようが勝手だろうと思うんです。デリヘルだったらキレていいと思いますね。チェンジで。

 

 

自己肯定感を失ってしまったら再構築することは困難でしかないと思います。0から1を生み出すとかそういうレベルです。その感情が「ない」わけですからね。難しい。自己肯定感が低いことと謙虚さはイコールではないと理解している人は少なそうです。褒められて「そんなことないですよ」って言うのは本当にそう思ってないからであって、自分に自信があってそれを分かっている上での営業挨拶ではないのだと。側から見たら線引きは難しいですね。女の子は褒めれば喜ぶだろうとか思っていっぱい褒める人もいますが、かえってそれがその人にとっての負担でしかなかったり。考えた上での発言であっても相手の意を汲めていなかったら、ただ傷つけるだけになってしまう人間の難しさですね。

 

自己肯定感が低い。だから他人に評価を依存して、気がつけばその「人」に依存してしまい、その人の存在が自己の肯定になってしまうのではないでしょうか。自分の感情が一つ外に出て、しかもそれに足がついていて思考するものだということに恐怖を抱かないくらい盲目になってしまうのが現実です。肯定を他人に委ねてしまうことが一つの現実逃避の方法なのかもしれません。

 

これは「メンヘラ」と括られている人に多く見られるのでは。正直、メンヘラと聞くとめんどくさそうな人だとか重そうだとかそういったイメージが抱かれると思います。何故なのか。それはファッションメンヘラの存在や、自分を否定した形を他人に見せることで少なからず共感を得たいとか、可哀想と思って欲しい、構って欲しいという人が使いがちな「ツール」を利用している人を総称しているものだ世間に認知されつつあるからではないでしょうか。

メンヘラとは2ちゃんねるの「メンタルヘルス板」の略であり、精神障がいそのものを示す単語ではなかったのです。

詳しくこちらのサイトに書かれていたので、目を通していただけると幸いです。

「メンヘラ」ってどういう意味? メンヘラという言葉が生まれるまで - メンヘラ.jp

 

精神障がいを抱えている身としてはより肩幅が狭くなったと感じます。うつは脳の病気で、自分の意図しないところで症状が出てしまうことがあります。それが人前だと尚更辛い。汚いものを見るような目で見られ、「構って欲しいの?」と心無い言葉に刺される。できるものなら1人の時に症状も涙も出て欲しいものですが、それが管理できないから障がいと言われているわけで。「障がい」というものは一生治らないものだと思っています。薬を服用し続けたり、カウンセリングを続けることで「マシに」するものだと。一生共に歩んでいくものだと私は思います。

引きずっている鎖は他者からは見えず、「普通の人」と同じ歩き方をしたりスピードを出すためには何倍もの努力が必要だということを、日常生活のなかで痛感させられます。もちろんそれに気がつかれるわけもなく、理解されるわけもなく、キャパオーバーして壊れてしまう人が多いのが現状です。彼らなりに前に進んでいるのに、人は言うわけです「全然進んでないね」と。

昔クラスにいたうつ病の子を思い出します。クラスの女子からは煙たがられ、友人と呼べる人もそんなに多くはなかった気がします。それでも、保健室に毎日のように通えていた彼女はとても強い人だったのだとこっち側に来てから気がつきました。当時中学生。メンヘラという言葉もありませんでした。ただのかまってちゃんなんだと片付けられて、毎日たくさんの人に冷たい目で見られながらも自分のペースでちゃんと継続して歩けていたことの凄さ。今の私でもできていないことです。

 

辛い思いをしている人々が「メンヘラ」とか、「かまってちゃん」で片付けられてしまうことがとても悲しいなと心臓が締め付けられる午前四時。日本は他人ばかり見ていて等身大の自分を見れていない人間が育つ場所なので仕方がないといえば仕方がないです。それを根本的に変えるのは300年あっても足りるのでしょうか。

決められたステージの上で、自分も、他人も、個性を生かせて、辛いことも共有できて、偽らないでいいような場所を作っていきたいですね。顔も住んでいる場所も知らない私に優しい言葉をかけてくれた彼女のような人が増えればいいのになあとかまた人任せで考えてしまうのが悪いところですね。治していきたい。つらい。生きにくい。